『ザッハトルテ』
「良守、ケーキを作るつもりはないか?」
久しぶりに実家に帰っていた正守が、学校から帰ってきたばかりの良守に声をかけた。良守はただでさえ兄が家にいるだけで不愉快なのに、声をかけてきて、更にケーキを作れと言わんばかりの内容に不機嫌むき出しの顔をした。
「ケーキは作りたいけど、お前の為に作るのは嫌だ」
良守はそっぽ向いたが、一応返事だけはした。こういう弟だと言うことは正守はよくわかっている。だからこの答えも予想通りであったので、予定通りの応答をする。
「俺の為じゃなくて、刃鳥の為に作って欲しいんだ」
良守は兄の部下である刃鳥に好感を持っているので、彼女の為ということなら別にかまわないのだが、何故兄がケーキを贈るのか。
「刃鳥さん、誕生日なのか?」
多分こんな理由だろうとアタリを付けて正守に聞いてみた。ところが返ってきた答えは良守の予想の範疇を越えていた。
「いや、婚約したんだ。俺達」
事も無げにさらりと正守は答えた。
良守は二人が特別な関係にあることを正守から聞かされていて、昨夜などは携帯の待受に使ってる彼女の写真を変えたからと、良守には少し刺激的な画像をわざわざ見せつけに来たぐらいである。
しかし、そこまで進展しているとは思わなかったので単純に驚いたのだ。
「そういうことなら…作ってやらなくもない。チョコレートケーキでいいか?」
遠回しな言い方だが、良守は了承した。正守はニヤリと笑い、
「この間雑誌で見たんだが、ザッハトルテ。あれ美味そうだったんだよな。お前では作れないか」
と言った。兄に出来ないだろうと言われると反発したくなるのがこの弟。
「ああ、作ってやるよ。ザッハトルテ。待ってろっ!!」
良守はそう宣言して台所に向かった。もちろんそうし向けたのは兄の策略であった。
数時間後。正守の前に良守特製のザッハトルテが置かれた。正守は四方八方からそれを眺め、満足げに頷いた。
「ありがとう。刃鳥もきっと喜ぶよ」
正守がそう言うと、良守はホッとした。そんな良守に一つ、正守が注文を付けた。良守はせっかくのザッハトルテにそれはないだろうと反発したがお祝い事だからと言われ、その注文に従うことにした。
「じゃぁな、良守」
そう言って正守はザッハトルテを大事そうに抱えて家を出た。そんな兄の背中を見送りながら
「あいつ、何しに帰ってきたんだ?」
弟は独り言をつぶやいた。
本拠地に戻ってきた正守を刃鳥が出迎えた。
「これ、良守からのお土産。刃鳥にって」
正守は手にしていた箱を刃鳥に手渡した。
「良守くんが? 私に?」
刃鳥は不思議に思ったらしい。良守とは比較的よく知った仲ではあるが、土産をもらうような出来事があったわけではない。訝しげに箱を見つめていた。
「中身はザッハトルテだってさ。良守が作ったらしい」
と正守が言ったので、それじゃあ、と箱のふたを取った。が、刃鳥の手は止まり、顔は般若のように変貌していた。そのザッハトルテにはホワイトチョコで、
『兄貴v刃鳥さん 婚約おめでとう』
と書かれていたのだ。ふたを持つ刃鳥の手はふるふると震え、どす黒いオーラに包まれていく。
「頭領? これは一体どういう事ですか?」
怒りをにじませながら刃鳥は正守に質問した。
正守は、刃鳥が呆れて「良守くんに何をさせてるんですか」と言い、ザッハトルテを切り分けて二人で笑いながらお茶をと考えていたのに、その予想を見事なまでに裏切った、目の前で怒りに打ち震える我が右腕をいかに静めるか、その為に脳をフル回転させた。
「あ……のさ、良守にケーキを……作ってもらおうとしたんだが、あっさり断られて……お祝い事って事なら……作ってくれるかなーなんて…ははは」
いくらか脚色はしたが、流れは間違っていない説明をした。
刃鳥はハァと大きなため息をつき、
「良守くんにそんな嘘を付かなくてもいいでしょう? 嘘をつくにしても誕生日とか他に何かあったでしょう」
と言った。正守も流石に申し訳なくなったのか、大きな身体を精一杯縮めて、上目遣いに刃鳥のご機嫌を伺っていた。
とその時、正守の携帯から着信音が流れた。刃鳥にちょっと待ってと言い、携帯を開くと画面には『自宅』の文字。「はい」と言って電話を受けた。
「正守!! お前、婚約したとはどういう事じゃっ!!! そんな話は聞いとらんぞ!!」
電話の相手は繁守で、どうやら良守がこの件を家族に話してしまったらしい事は分かった。
「おじいさん、ちょっと待って下さい。これには訳が…」
正守が弁解しようとしたが、繁守は聞く耳を持たず、
「刃鳥さんはお前の部下じゃろ。部下に手を出すとはどういう事じゃっ。それよりも相手方のご家族と顔合わせもせんと、何を勝手に決めとるんじゃ!! 今すぐ刃鳥さんを連れて家に帰ってこいっ!!!!!」
言いたいことだけ言って、電話を切ってしまった。正守は通信が切れたことを示す電子音が流れる携帯を握りしめたまま立ちすくんでしまった。
その間に刃鳥は皿とナイフを用意していた。
「なぁ刃鳥。家に一緒に来てもらえないか。俺としては本気で話を進めたいと思ってるから、家族に会ってもらいたいんだが…」
と正守が申し訳なさそうに刃鳥に話しかけるが、刃鳥は黙ってザッハトルテにナイフを入れて、『刃鳥さん』と書かれた部分だけ切り出し、皿に移していた。そしてその皿を持って、
「ご自分の尻ぬぐいはご自分でどうぞ。良守くんの厚意は私の分だけ頂いておきます」
と言い残し、自室に戻っていった。
『兄貴v 婚約おめでとう』とだけ残されたザッハトルテと、通信の切れた携帯電話を目の前にして正守は途方に暮れていた。
こんなおふざけもいいんじゃないかなーなんてことで、ちょろっと書いてみました。
真のタイトルは『策士策に溺れる』(笑)
『甘菓』と『お茶の時間』を読んで下さった方なら、ささやかにニヤリとしてもらえる派生ネタです。
もちろん読んでなくても何の問題もなく読めるようになってます。
080930