『色づく唇』

刃鳥は憂鬱な顔をして、唇を指でなぞっていた。
「どうしたんですか? 副長」
そう声をかけてきたのは、買い物から戻ってきたアトラ。このところの乾燥のせいか、刃鳥の唇はカサカサになっていた。
「今買ってきたばっかりのリップクリームがありますから使います?」
「薬用のなら、お言葉に甘えたいんだけど」
そう言う刃鳥に、アトラは手持ちのレジ袋からリップクリームを取り出し、パッケージを取り払ってから渡した。
ありがとうと言って、刃鳥はふたを取って少しだけ出してから、スッと唇に乗せた。
ふたをしようとした時、さっきまで白だったリップクリームの表面の色が、ほんのりピンクになっていることに気付いた。
「何? これ」
手元にあった小さな鏡に手を伸ばして自分の顔を映すと、唇がピンクに色づいていた。
「それね、塗ると色が付くんですよ。可愛いでしょ」
「でも……困るわ。遊びに行くわけでもないのに色つきはちょっと」
と困り顔な刃鳥にアトラは、
「大丈夫ですよ。派手な色じゃないから、みんな気付きませんって。頭領ならわかるかもしれないけど、今実家に戻られてるんですよね」
と返した。そうかしらと刃鳥は考えたが、今手元にはこれしかないし、せっかくアトラが譲ってくれたものだからとそのまま使うことにした。

「染木、織原。先日の報告書、早めに出してくれる?」
刃鳥は庭で修行しているメンツの中にいた、染木文弥と織原絲に声をかけた。二人は彼女の側に寄ってきて、今日中に提出しますと答えた。
その時、絲はじっと刃鳥の顔を見ながら何かを考えていた。
「織原? 何?」
刃鳥に言われて、絲は何でもありませんと首を横に振った。
「そう。じゃぁ、報告書お願いね」
と言い残して刃鳥はその場を去った。
絲の様子を不思議に思った文弥はどうしたのかと尋ねると、彼の耳元でぼそぼそと話し始めた。
「ええっ!? 副長が唇に色を付けてたって!?」
思わぬことを言われた文弥は驚いて、絲が話したことを大声で復唱した。
その瞬間、周りの動きが止まった。そしてものすごいスピードで庭にいた全員が二人の元に集まった。
いつも顔は洗いっぱなしで特に手入れをしている様子のない刃鳥が、唇に色を乗せているというのである。構成員、特に男達は色めき立った。
絲にどんな風だったと聞き出そうとする者達に対し、小さな声で、
「ほんのり……ピンク色になってたの。なんかね、可愛かった」
と一所懸命答えていた。

夕食時、集まっていた者達の視線は刃鳥の唇に集中していた。といっても、気付かれないようにと皆がちらちらと視線を向けていたというのが事実である。
刃鳥自身はリップクリームの件は既に頭からすっぽ抜けていて、何故皆の視線が飛んでくるのか、理解に苦しんでいた。
食後にまた先ほどのメンツが庭に集まり、確かに色づいていたと確認しあっていた。
そして正守がいないこの時にそんなことがあるというのは、二人の仲が上司と部下に戻ってしまったからではないかと議論を始める。うっかりすれば夜行の危機だというところまで展開した辺りで、
「そんなわけないでしょーが」
割って入った声はアトラだった。大勢が庭でワイのワイのやっているのを聞いて、事の顛末を話した方が早そうだと思ったからであった。
それを聞いた面々は安堵した。そして、あんな副長もたまには良いよななどと口々に言いながらそれぞれの部屋に戻っていった。

翌日もその翌日も、刃鳥の唇はピンクに染まっていた。
皆の関心は、実家から戻ってきた正守がそれを見て、どんな反応をするのかに移っていた。
そして次の日の夕方、修史の手製弁当が詰まった重箱を抱えた正守が本拠地に戻ってきた。いつものように副長以下、手の空いた者達が玄関先で出迎える。
「お帰りなさいませ。ご実家はいかがでしたか?」
そう聞かれて正守は重箱を刃鳥に手渡しながら、
「良守に随分突っかかられたよ。烏森の仕事の手伝いをしたらさ、ジャマすんなってね。あ、これ父からの差し入れ」
などと話し始めた。しかし期待するような言葉や反応が出てこないので、皆がイライラしていると、重箱を持った刃鳥が振り返り、顔を見てあることに気付いた。
唇がナチュラルな色に戻っていたのである。
正守と刃鳥を除く、その場にいた者達は一気に落胆した。刃鳥はそれを全く気にもせず、台所へ向かった。玄関先は薄暗い雰囲気になり、
「お前ら、どうしたんだ? そんなに俺がいない方がいいのか?」
首をひねる正守にアトラから、
「そうじゃないんですよ、頭領。イイモノ見逃しちゃった頭領を残念がってるだけです」
と要領を得ない答えが飛んできた。
仕方なくアトラは正守がいなかった数日間の話をすると、
「なんだ、そんなことか。そんなもの使わなくたって、唇を染める方法はいくらでもあるさ。俺になら出来るけどね」
と正守は言い残して、自室に戻っていった。残された者達は、
――頭領すげぇ……なんか大人っつーか、エロい――
と思ったようだった。

その少し後。実家から戻ったばかりの大柄な男は自室で、自分だけ色づく刃鳥の唇を見られなかったことに対し、子供のようにぷーっと頬を膨らませ、ふてくされていた。


実際にあるんですよね、薬用リップなのに思った以上に色が付くヤツ。
刃鳥さんが口紅をつけそうにはないので、こんな形で色づいたらちょっと良いかな?なんて思いました。
まっさんが残念で誠に申し訳ない。多分お願いすれば、刃鳥さんならリップぐらいは塗ってくれそうですけどね。 081120