『腕』

薄暗い部屋で彼は机に向かい、手元にある書類に目を通している。 真剣な眼差しをしていて、任務から戻ってきた私には全く気付いていないようだった。
少し汗ばんでいたので羽織を脱ぎ、左腕のサラシも外していた私は、仕事以外では見せることのない素の腕を、そっと彼の広い背中に伸ばしてみた。
彼は気付かない。
戦闘での気の高ぶりがまだ残っているのか、腕をそのままで止めることが出来ずに反対の腕も伸ばし、彼を後ろから軽く抱く形になった。

彼の動きが止まる。私の動きも止まる。

どうしてこんな事をしてしまったのかと、後悔の念が頭の中を駆けめぐる。腕をほどくことを考えつかないほど。
「おかえり、お疲れ様」
低く優しい声。
「すみません」
ただそれだけしか言えなかった。
そして、私の手に彼の手が添えられて… 思考が停止した。

「すみませんって何? 任務でミスでもした?」
彼は問いつめるでもなく、普段と同じように声をかけてきた。
「……いえ。任務は無事完了しました」
まだ頭が上手く働かない私はそれを言うのが精一杯だった。
「そう。じゃぁ、すみませんなんて言わなくていい」
彼はそう言って私の左手を取り、甲に唇を落とした。私は慌てて手を引き、彼の背中からも離れた。
――意図が分からない。
「いけません。こんなところに……」
私の左腕には普通の人にはない、脇の辺りから手の甲にかけて紋様がある。 美しいわけでもなく、むしろ忌まわしいそんな場所に唇を触れさせるなんて理解出来ない。私自身はこれを人目に触れさせるのも憚っているというのに。
「刃鳥はその紋様を好きじゃないみたいだな。俺とは正反対だ」
彼は私に背中を向けたまま話し出す。
「俺は自分の右手に方印が出るものだと思ってた。望んでいたのにそれはなく、刃鳥には望んでいないのに紋様がある。皮肉だな」
それは彼にとってコンプレックスであることは感じていたが、本人の口から聞いたのは初めてだった。彼は言葉を続ける。
「でも、俺達はこれでよかったんだ。でなければ出会えなかったかもしれない」
彼は振り向いて、少しはにかんだ。
事実、彼が正統継承者で、私が普通の人だったら出会うこともなく、こんな風に過ごすことなど絶対にありえなかったのだから。

「なぁ刃鳥。お前は欲しいものはあるか?」
真面目な顔になった彼が問うてきた。私の欲しいもの……
「そうですね……今の居場所。夜行があればそれでいいです」
ここがあれば、異能者である私も仲間達も生きてゆける。だから。
「それだけ?」
そういって不思議そうに私を見た。裏会に入るまで、普通の人とあまり変わらぬ生活を送ってきた彼にはきっと分からない。奇異の目で見られながら生きてきたこと、闇でしか生きられなかったこと。今同じ場所にいても、全く同じではないのだ。
私は目を伏せた。それを見て彼は言葉を続ける。
「俺は力が欲しい、絶対的な力を。支えが欲しい、俺は一人ではないという支えを。それから…」

「……が欲しい」

その言葉で自分の中に大きな感情の揺れを感じた。鼓動が早くなる。 それを悟られないうちにこの場を去ろう。彼の言葉には触れず、
「頭領、お疲れのようですね。早くお休み下さい。私もこれで」
そう言って震える足を何とか動かして立ち上がる。一時も早くこの場から立ち去ろうと気だけが焦るばかりでスムーズに動かない。
「俺は嘘を言ってない。今じゃなくてもいいから……いつか返事を聞かせて欲しい」
いつもの彼からは想像もつかないほど頼りなげな声で懇願された。私はそれにも答えずに「お休みなさい」とだけ言って部屋を出た。
私が望まれているのは、今まで通りの立場の私。勘違いをしてはいけない。もし勘違いでなくても、自分の気持ちを解放して、今まで通りに過ごせる自信がないのだから……と自分に強く言い聞かせて、床についた。

翌朝、廊下で彼と顔を合わせる。
「おはようございます」
「おはよう、刃鳥」
いつもと変わらぬ挨拶を交わす。昨夜のことはやっぱり私の見た夢だったのだと念を押し、いつものように通り過ぎようとしたが、彼が私の左腕を掴み、巻いたサラシの上から昨夜と同じように唇を触れさせてきた。
「返事を……いや、何でもない」
彼はそう言ってから、私の左腕を解放して離れていった。私は揺らぐ気持ちを抑えつつ、彼の背中を見送った。


Kさんが描かれたイラストを眺めていたら、ゲリラ豪雨のように『思考が停止した』までの文章が降ってきました。これで終わりだったのですが、続きが気になると言われて、湧いてきたらと返したのですが、簡単に湧いてきましたorz
そうしたら何故か正守からの告白話になってました。
シリアスを書くと、どうしても美希さんが妖混じり(だと思う)であることを引け目に感じてるように描いてしまうんですよ。これをフォローする話は追々ということで。 080914+21