『唇を寄せるまでのプロセス』
墨村家の庭が見える和室で、兄は目を閉じたまま茶をすすり、弟はふてくされた顔を横に向けて対面する位置に座っていた。
「なぁ……お前さぁ。キ……キス……したことあんのか?」
弟が消え入るような声で聞いた。
「ん? あるよ」
兄は事も無げに答えた。
――ああ、ムカつく――
と弟が思っても、兄は七つ年上でおまけに成人しているのだから、さほど不自然な答えではない。
相手は誰だろうと思ったが、弟の頭には兄の傍にいる自分の想い人によく似たタイプの女性の顔が浮かんだので聞きはしなかった。付き合っているという話を聞いたわけではないが、鈍い自分にだってそのくらいの空気は読めてるつもりだと弟は思っている。
もしここで問えば、兄がニヤリとしながら「お前こそ時音ちゃんとどうなの?」と質問返しにあうのは目に見えている。
「キスって、……どうやってすんだよ」
本当はこんな事を兄には聞きたくないが、祖父や父、ましてや想い人に聞くわけにもいかない。弟には経験がありそうで聞ける相手が兄しかいなかった。
「そりゃぁ、肩でも抱き寄せて、唇を重ねる。そんなもんだろ?」
あにはさらっと答えてきたが、それは弟が求める答えではなかった。
「そんなこと分かってるっつーの。俺が聞きたいのは…」
そこまでのプロセス。と言おうとしたら、兄はニヤニヤ笑っていて、からかわれたとすぐに分かった。余裕アリアリな兄の行動はいつも弟を腹立たせるだけだった。
「もういいっ。お前なんかに聞いた俺がバカだった」
そう言って弟は立ち上がって部屋を出て行こうとしたら、兄からのもう一押し。
「まぁ頑張れよ。その前に告白しないとダメだぞ」
頭に血が上った弟はドスドスと廊下に足音を響かせながら自室に戻っていった。
――良守独白
「なんだよ、アイツは。唇を重ねるぐらいのことはわかってるっつーの。そこまでたどり着けないから、仕方なしに頼ったのにバカにしやがって……」
俺はただでさえその事で悩み続けてるのに、イライラが上乗せされて頭の中がゴチャゴチャになってしまっているというのに、そんな空気を兄貴は読めないのかと腹立たしい思いで一杯になってた。
布団の上に寝転がり、時音のことを思い浮かべる。
時音って、俺といる時はいつも怒ってばっかだけど、他のヤツ、特に年上の男といる時はなんだか可愛い顔をしてることが多い気がする。兄貴とか夕上とかいうヤツとか……
俺は余計なことに気付いてしまったのかもしれない。それは俺が最初っから時音の対象外であるかもしれないってことに。
時音の父さんは早くに亡くなって、兄弟もいないから兄貴のことを実の兄みたいに慕っているのも知っている。
だからって……そんなことぐらいでずっと想い続けてきた時音のことを諦められる訳がない。
だって俺には時音のいない世界なんて考えられない。時音がだれかのモノになるなんて絶対に嫌だから。
となると、年齢以外の条件はクリアしないといけないんじゃないかという考えに到達する訳である。
先ずは身長。これはきっと大丈夫。父さんや兄貴を見てたら何の心配もないし、俺はまだ成長期。時音よりも高くなる、絶対なる、何故か断言出来る。
その次は精神年齢。これはあの男がアドバイスしてくれた、俺にとって最強の武器となるであろう『包容力』。これを磨けば時音に年齢を感じさせない、いや、年上の男だと感じさせることだって出来るに違いない。
「なんか俺。今、ものすごく前向きじゃね?」
あとは見た目。男らしさの象徴と言えば……髭? 俺、髭なんか生えてないし。じゃぁ和服……? これじゃぁ兄貴をなぞってるだけじゃないか。兄貴をなぞったところで兄貴にはなれないし、それに俺あんなにおっさん臭くないし。
それに女が思ういい男ってどんなのかわかんないし、時音には聞けないし……そうだ、刃鳥さんなら教えてくれるかもしれない。
「……あ、あの相談も刃鳥さんに聞けば、兄貴にバカにされることもなかったんだ!!」
今頃そんなことに気付いて激しく後悔してしまった。
そして俺は掛け布団を抱きしめて『これが時音だったらなぁ……』そんなことを思いながら、昼寝をする羽目になった。
――正守独白
参ったな。確かにキスは何度かしたことがあるが、本当に良守に話した通りでただ抱き寄せてキスしただけ。形だけで意味のあるものじゃなかったし。
思い出すと本当の意味でのキスをしたことがないのを改めて認める羽目になっただけ。そして今頃初恋をしてるのかもしれないということも……
――遅い初恋と麻疹は重症になりやすい。――
いつも傍にいて、自分とは違うタイプの刃鳥にいつの間にか惹かれていた。いつ、どうやって惹かれ始めたのかも分からないまま、ただ想い続けている。
過去にキスした女のように抱き寄せれば後は簡単なことなのに、キスどころか手を伸ばすことすら出来ないなんて。他の女とは何が違うんだろう。
もしかして、刃鳥に拒絶されることが怖いのだろうか?
それもあるかもしれないが、軽々しくしてはいけない気がするのだ。とても大切な……
だけどあの唇に自分より先に他の誰かが触れることがあったらと思うと、いつまでもこのままではいけないと考える。
「良守のことを笑ってる場合じゃないな」
『そうだ、時音ちゃんならどうされたいと思うのかな?』
聞いてみるのが一番早いと思い、雪村家に式神を飛ばしてみた。
時音ちゃんならきっといい案をくれそうだ。それを踏まえて、本拠地に戻ったらまず刃鳥にアプローチしてみよう。
そう思いながら腰を上げた。
焦れったい墨村兄弟(笑) まっさんは手が早そうな感じがするんですが、似たもの兄弟なので、本命にはなかなか手が出せないなんてこともあるんじゃないでしょうかねぇ…
焦れったく想いながら、一所懸命頑張ればいい。
つーかキスする以前の段階で悩んでるんだから、もっと頑張れ。
081004